月山・鳥海山 (文春文庫 も 2-1)
この小説を評するにあえて「風雅」という言葉を使いたい。人為的な花鳥風月の愉しみのもたらすような甘い「風雅」ではない。あの西行や芭蕉がそうであったように、己を飾る余分な装いを捨てて捨てて捨て切って「凡」のただ中に塗れながら、そこから自ずと射す出ずるような「風雅」である。〈生き物〉であることを免れない私たちの生活は生/死や清/濁、美/醜あるいは聖/俗の淡いの中にある。特に清・聖・美は死と同様にこの世の外のものであるが故に、それを掬った思えばたちまちその先にこぼれ落ちる「水の中の月」のようなものだ。月山の懐深く入りながら更にその彼方に死の山たる月山を望む冒頭の描写はまさにこの淡いを印象深く語っている。そもそも「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という『論語』を引用した序詞こそこの機微を凝縮した一句となる。山渓の陬村で繰り広げられる人々の暮らしは俗悪とすら言うべきものだが、それが冬の厳しい気候を通じ切り詰められ切る中、一筋の崇高なるものがおぼめき出でてくる。それはあたかも浮浪者の死骸を燻蒸して木乃伊を作ることにより、木乃伊が聖なるものへと変容するようなものだ。だがこの聖なる木乃伊もまたたちまちに俗世の貪欲の道具として再び塵芥のように扱われてしまう。そのようにして我々は聖に届きながら死に届きながら、俗悪に汚穢に突き返されてしまう。その循環を受け入れ生き抜くことこそが究極の「風雅」なのだ。この本の中で月山は単に月山だけではない。作品中に著者が放浪した吹浦や酒田のような出羽の町々、川苔のぬめりの汚穢を通じ死の彼方から再びこの世に帰還する「グリ石」にこの生死の淡いの道理が啓示される弥彦山中、さらには彼がかつて暮らした熊野の奥地や朝鮮凧によって「つかみ得ぬもの、掬い得ぬもの」に初めて遭遇した幼き日の京城の追想まで、著者が訪れた地の全てが遙か彼方の真の月山=死の月山を指し示す無数の月山となって、一大交響楽を奏で始める。やはり心に残るのは豪雪のさなか寒を凌ぐため著者が籠もった反古紙で作った蚊帳であろう。それは確かに人生に煮詰まり死に抱かれたこの地に零落した著者が、蛹を経て成虫へと再生するための繭に違いない。彼の死から生へ聖から俗への再生に応じるように、そこ陬村にも梅が咲き桃が咲き桜が咲き春が盛りを迎えていく。だがそれは同時に深々と降る雪に清められたこの村のあちらこちらに、人々が撒き散らした人糞が雪解けと共に再び顔を出す季節でもある。方言をうまく使いながらしみじみと語り紡ぐ文体は、その独自性故に当初取っつきにくいかも知れないが、読み進めるうちに次第に不思議な安堵感をもたらしてくれる。趣は多少異なるものの稲垣足穂の佳編『弥勒』を思い出させるところもあった。〈文〉の力による命の蘇りを体感したい方は一読されたい。
対談・文学と人生 (講談社文芸文庫)
独特の用語法と語り口で作家両名が創作論を交わした文学対談。正直なところ、決して読みやすい日本語を操るお二方ではないため、スラスラ読むというのは難しくじっくり味わいたい一冊だ。
「文学と人生」というタイトルだと文学好き達による人生論や読書論の本みたいだけど、実際は小説の中にどう現実世界を連結させるかとか、随筆的筆法や私小説に関する濃厚な話が展開されており、そういう意識で創作された小説というのは、結局、彼らの作った作品がそうであったように作家の生活や人生が色濃く投影されたフィクションになる。読み進む中でやっとこの境地の話が理解できた僕は、この書名でもまあ別に問題ないんだろうな、ということにしている。
なお、解説の坪内祐三の指摘によると、小島信夫の小説「別れる理由」は両者の対談で終わっており、本対談はこの小説の続きとして展開しているという。「内部と外部」「密閉と非密閉」といった両者の語る独特な文学コンセプトがそのまんま本対談の存在に「成っている」という設計もお見事。若き柄谷行人のヤンチャなエピソードが紹介されているのも、なんか微笑ましくて面白かったです。
抱擁家族 (講談社文芸文庫)
一言で言えば「ぶっとい作品」です。安部公房や三島由紀夫のような(この二人、タイプ全然違いますけども)才気走った鋭さは感じませんが、ある種の野蛮さがあります。タバコで言えば「ショートホープ」のように短くて濃厚な味がする作品と言えるでしょう。タバコを吸わない人には判らないでしょうが。
安部や三島とは違って「地味」なスタイルなので一般受けはしないでしょうが、淡々と進んでゆく展開の中に潜む小島信夫の「凄み」に驚かされるでしょう。ただし、文体が古いので取っ付けない人もいるでしょうが。
アメリカン・スクール (新潮文庫)
小島信夫のような大作家の小説をこのように読むことは間違っていることは承知でレビューします。
「アメリカン・スクール」は戦後10年以内が時代設定になっている短編小説ですが、現在の多くの英語教師たちの英語の力もこの小説に書かれている先生たちの英語の力と大差ありません。わたしのつれあいは日系アメリカ人でバイリンガルなのでそんなひどい目には遭いませんが、中高にネイティブを連れて行ったり、ネイティブもいっしょに先生たちと昼食会をしたりするとその外国人が日本人英語教師たちから透明人間扱いになる場面を何度も経験しています。その状況は少しずつはマシになってきてはいるそうですが。
文科省の方はこの本をよく読んで、この本に出てくるような英語教師たちがどうやったら少しでも効果的な英語教育を行えるか、膨大な数の英語のできない英語教師たちをどうやって研修するかの2点をまず真剣に考えるべきです。中高の英語の授業は原則英語で行うなどと現実からかけ離れたことを言ってないで。
ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)
オハイオのある田舎町に暮らす老若男女の22の物語が、地元で新聞記者をしているジョージ・ウィラードという青年の存在を媒介にして、ゆるやかにつながっている。(ただし、ジョージ・ウィラードは決してこの小説の語り手ではなく、彼もまた語り手に俯瞰される人間の一人である。)
それぞれの物語の主人公たちは、語り手の鋭い描写力により、そのキャラクターを鮮やかに読者の前にあらわすが、読者が彼等のことを理解しきった!と思えることはないであろう。
最終章で、ジョージ・ウィラードの町からの旅立ちが描かれており、一瞬、青春小説のたぐいだったのかと思わされそうになるが、ジョージを見送る駅員についての描写などを読む限り、やはり青春小説ではないなと思わされる。ジョージが旅立ったあとに目にするだろう世界や人々の物語は、その前の章ですでに語りつくされているような・・・。
このような小説なので、さっぱり爽快な読後感を求める向きには歯がゆいものになるであろうが、これがどうしてなかなか味わい深い作品であるのは間違いない。
未婚の女性や禁欲的な生活を送っている方、あるいは何か重荷を背負わされて前に進めないと思っている方にとくにおすすめしたい。