暴力による暴力の肯定ではなく、暴力による暴力の否定であるおすすめ度
★★★★☆
この作品は僕がちょうど中学生の頃に公開され、その暴力的な内容が話題を呼んでいた。
レビューをいくつか見ても「何かを伝えようとする人」と「何も無いと主張する人」とが大きく分かれているのが伺える。
僕はその両者でもなく、あえて言うならば何かを伝えようとする側に属するのだと思う。
なぜなら、この映画は観る人に何かを伝えようとする純粋な作品でもなく、ただの暴力しか無い映画でもないと思っているからです。
では一体どんな映画だと思っているのか?それは暴力を含む表現によって何かを伝えようとしている映画だと言うことです。
さんざん言われてきた通り、この映画では42人のクラスメートが殺し合いというゲームを強要され、それを繰り広げる血まみれの残酷な内容です。
そしてそこには個々の生徒の価値観が行動に大きく関わっており、それらがこの殺し合いの中での役割を演じているのです。
例えば、藤原竜也さん演じる主人公の七原秋也は情が深く、同じ孤児院で育ち人生を共にしてきた親友の国信慶時の死に、
慶時が想いを寄せていた女子の中川典子を守ることを決意する。こういったそれぞれの思いが殺し合いという極限状態の
下でも表れている。いや、むしろそういった個々の内面は極限状態において極まると言ってもいいと思う。
このゲームにおいてまず言えることは信じる心が重要だということ。もし誰かと遭遇した場合、相手が信じれない場合は
誰でもきっとその相手に銃口を向けるだろうと思う。つまり自分を攻撃し得る人間に遭遇した場合は相手に攻撃される前に
自分の身を守るために威嚇するということ。一方、信じれる人間と遭遇した場合は?自分を攻撃し得ない人間に遭遇した
場合は銃口を向けるどころか繋がろうとするだろう。これが友達というものなのではないかと思う。
ではこの時の武器とは?これは誰でも心の奥底に持っている暴力そのものだ。誰かと喧嘩するとき、言葉という暴力を使う。
皆、気付かないうちに色々な場面で暴力を使ってきたのだと思う。それによって友達だったはずの人間と喧嘩してしまうし、
自分を愛してくれている人や家族までも傷つけてしまう。そう、日常はバトルロワイアルと化してしまっているのである。
そういった暴力の先に残るものは何も無い。そしてお互いに武器を持っている僕らはいつかそれを使うときが来るとして
迷い続ければならないのだろう。だけど今よりもっと前に進まなくてはならない。
これが僕の受け取ったメッセージであり、映画のラストシーンを締めくくる言葉でした。
バトルロワイアルとは、暴力という誰もが入りやすい入口でありながらもその出口が見つかりにくい作品である。
その出口があると主張する人と無いと主張する人とがレビューに分かれているということなのだ。こういった事態が
起きるのは、この作品が暴力によってその対極にある優しさを伝えるものであるからであるからだ思う。
この作品のみならず、深作欣二監督は暴力を描くことで暴力を否定しようという考えが根底にあり決して暴力を肯定しているわけではない。
そしてそれは監督自身が戦争という巨大な暴力を体験したことがきっかけのようである。
概要
大人の自信を取り戻すため可決された新世紀教育改革法「BR法」それは、全国の中学3年生から選ばれた1クラスの生徒たちを無人島に集め、最後のひとりになるまで殺し合いをさせる残酷なサバイバルゲームだった。 ある日突然、42人の生徒に強制される殺し合い。歯向かえば容赦なく消され、おびえ怒りながらも与えられた武器を手に、自分たちの命をかけた殺戮(さつりく)ゲームの幕を切る。初めて味わう死と隣り合わせの極限状態で、夢、希望、願い、友情…さまざまな自分の思いと向き合いながら武器を抱えて走る彼らの姿に、凝縮された青春像が垣間見れる。
また、ビートたけし演じる中年教師をとおして居場所のなくなった大人の憤りと寂しさも十分に伝わってくる。情けない嫌われ者教師からヒトラーさながらの冷徹殺人司令官、そしてラストに本当の心情を見せる中年男への変化をビートたけしが圧倒的な存在感で演じているのも必見。(中山恵子)