社会分業論(下) (講談社学術文庫)
下巻には、「第二編 原因と条件」と、「第三編 異常的諸形態」が収録されている。上巻が、観察可能な社会的分業の生成過程を事実として記述したのに対し、下巻ではそんな社会的分業の変革がなぜ起こるのかを探っていく。
著者は、社会的分業が必要とされる要素として、人口集中・都市の形成および発展・交通および運輸の手段の進歩などによって共同体内の密度が高まること、「社会の漸進的凝集」と、共同体内の成員数の増加による「社会内関係の増加」の二つを見出し、両者の相互作用によって社会的分業の濃度が増していき、それが一定の閾値に達することで社会的連帯の形が変わり、結果的に社会的分業の形態も変化すると論を進める。豊富な具体例を挙げて展開していくこの件を読んでいくと、デュルケム自身が社会学という名で呼んだ思考のエッセンスについて理解できた気がする。
デュルケム自身はどちらかといえば保守的な立場をとっていたように思えるし、この著作に記されている「個人は社会の産物である」という言葉や、国家が一定程度社会を統制することは当然であり、不可欠であるという考えは革新的な世界観とは相容れない。しかし、その保守的な思考がかえって社会の実在性と問題性を明確に言い当てることに役立っているし、ある意味では世界への根源的な批判の基礎にもなっている。
この書籍には、後にフーコーの「監視と処罰」でより克明になされた社会解剖の先駆となる分析が多く含まれていると思う。自分にとっては、ウェーバーより数段理解しやすく、納得できるところが多い。何で日本で人気が無いのか、名声が高くないのか不思議だ。他の人にも、デュルケムの著作をお勧めしたい。
十九歳の無念―須藤正和さんリンチ殺人事件
まずこの事件は、加害者による死に至るまでの凄惨さが最も印象的だ。高校卒業後に就職した非が無い少年から容赦無く金を巻き上げ、自分に危害が及びそうになった途端、使い捨ての如く証拠隠滅殺害を企てる。日頃のリンチも防犯カメラで一見して解かる程顔面はパンパンに腫上っていた。殺害時も本人の目の前で埋められる穴を掘って行くという情のかけらの無い行動は、憤りという言葉では済まされない感情が出る。また単に加害者の醜悪だけでは終わらないのが本件で、両親が警察へ再三捜査を要請したのに、全く腰を動かそうとしない組織の怠慢さ。やっと対応したかと思えば犯人に電話口で「警察だ」と身元を明かす失態(この対応が殺害の直接因子になったのは明白)。犯人の両親が警察官で、体面を保つための醜態とも取れる。日本社会に蔓延る歪んだ組織を浮き掘りにする。
と、同時に本書で過去の色々な事件を思い出す。警察の怠慢と言えば、桶川ストーカーを思い出す。被害者が加害者に隷属状態だったのも、激しいリンチが繰り返される事により、積極的な感情が削がれたのだろう。これも新潟監禁を思わせる。執拗なリンチは、紛れも無く綾瀬コンクリート殺人そのものだ。
つまりは、過去に起きた凄惨な事件が生かされておらず、負の連鎖を断ち切れていないのだ。せめて桶川の「ストーカー法成立」、東名高速追突の「危険運転致死法」のような今後生かせる契機となる事を本件でも期待したいし、遺族、被害者への救いだろう。