家族写真 (河出文庫)
本書には巻末に著者による「文庫版 あとがき」及び湯川豊氏による「解説」が付されている。また、帯には「ツジハラに侵蝕される、世界、世界、世界、――」ともある。このうえ私が本書についてどうこう言えるものかどうか? 気の利いたことは言えないけれども、蛇足、あるいはとんちんかんな評言だけれども、レヴューしてみようと思う。
をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり、と紀貫之は女の筆に仮託して仮名文日記、『土佐日記』を綴ったが、生憎、僕には日記をつける習慣はない。
という書き出しで始まるのは、五篇目に収録された「緑色の経験」だ。太宰治は、「女人訓戒」の中で、
或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の細胞と同化し、柔軟、透明の白色の肌を確保するに到るであろうという、愚かな迷信である。けれども、不愉快なことには、彼女は、その試みに成功したという風聞がある。もう、ここに到っては、なにがなんだかわからない。(略)/なんにでもなれるのである。(「女人訓戒」/引用は、青空文庫による)
と書いている。要するに、女性はその気になれば、「なんにでもなれる」と太宰は言っているのだが、辻原氏は、「一心に思いを凝らせば、その思いが自然を動かす」と書いている。そうして、日記の筆記者は「思い」に「侵蝕」され、「女に変身」する。めちゃくちゃと言えば、めちゃくちゃな話である。しかし、という「思い」も抱く。
しかし、そうなると、「紀貫之は女の筆に仮託して」云々という史実、を疑ってみたくなる。疑る、という言葉は正確ではない。推論したくなる、というべきか。紀貫之は技巧として女性の肉声を借りようとしたのではなく、男としての自分に違和を抱き、どうしても女性の肉声を必要としたのではないか? そのあまり、ついに彼は、彼女になったのではないか? という推論である。そう推論したから、どうなるわけでもないのだけれど、しかし、紀貫之をインテリでダンディな男性としてイメージするよりも、不遜な観は否めないにしても、おネエ系のおっさんとしてイメージした方が、なんだか、楽しそうじゃないか。
案の定、とんでもないレヴューになってしまったが、気になった方は、本書を手にとってご確認のほどを。
東京大学で世界文学を学ぶ
人間が生まれて成長していく過程と、人類が誕生して文化を持っていく、言語を習得していく過程とはパラレルではないか。そういうふうに考えるしかないような形で人間が意識、つまり、言語を持った。(巨大となった脳細胞の自己保存)
言語を持つということは音を分節すると同時に世界を分節することである。外側の世界を音によって分節化して再構築する。
そこに物語が生まれる。神話が誕生する。
物語とは共同体内部の声に依拠している。
近代の小説(言語で書かれたもの)は個人がつくり出したものである。そして、物語から声が失われたものが黙読である。
声が閉じ込められることによって「内面」が生まれる。心である。つまり、「行為」でなく主観・客観・対象である。
(仏教ではこれを幻化・空華とする)
明治以来の教育は一貫してこの流れを加速させてきた。(近代化)
この本を読んでいると江戸時代以前についてどの程度を理解出来るだろうかということを考えてしまう。
外部自然と私とが切れ目なしに地続きになっている無垢な経験が今では失われている。「行為」という視点の欠落である。
かろうじて武術等には残っているがこの落差は大きい。
辻原登は慧眼の人である。このほか多数の斬新な見解が示されている。